盛岡家庭裁判所 昭和40年(少)679号 決定 1965年6月17日
少年 M・H(昭二四・六・二八生)
主文
少年を医療少年院に送致する。
理由
(非行事実)
少年は、亡父M・Tと母同K子の長男として、本籍地において生まれ、昭和三七年三月同地の小学校を卒業後、同年四月亡父Tの将来の高等学校進学に対する配慮から、盛岡市の私立○○中学校に入学し、昭和四〇年三月同中学校を卒業して、同年四月兄弟校である私立○○高等学校に進学し、同校普通科第一学年に在籍中のものである。
少年は、その間同小学校在学中はさして問題がなく終始し、同中学校進学以後も、本籍地から汽車で通学していたけれども、同第一学年、第二学年の間は、同校野球部に加入して、クラブ活動に熱中し、学業成績が振わなかつたため亡父Tの配慮にかかわらず、その期待に反していたほかは格別に問題はなかつた。
しかし、少年は同校第三学年進級の前後から学業を怠り、学校内外の不良グループと交際をもつようになり、かつ、喫煙を覚えるなど素行が不良化しはじめた。そして、少年は、同学年後期の昭和三九年九月頃からは、野球部を退部し、スケート部に入部したが、クラブ活動にも学業にも情熱を失なつて時々怠学しては、不良交友を重ね、盛岡市内の盛り場や駅・デパートの待合室などを徘徊し、時には友人宅・駅待合室などに無断外泊をするなどして、喫煙・飲酒・不純異性交遊などを繰り返すようになり、そのため、一再ならず盛岡警察署警察官などに補導され、かつ、しばしば、亡父Tからきつく注意を受けるようになつた。それにもかかわらず、少年は、昭和四〇年三月下旬頃、木綿針と墨汁を用い、両腕前面に入墨を施したりするなどして少年の素行は、なお悪化の一途をたどり、亡父Tの憂慮する範囲をこえ、学校においては、同中学校のいわゆる番長格として、要注意人物と目されるようになり、家庭においては家族、親類などの注意や忠告に耳をかさず、強い反抗的態度を示し、亡父Tはじめ家族の者たちが、少年の素行を憂慮し、その取扱に手を焼くようになつた。特に、少年は、帰宅が遅くなつたり、無断外出・無断外泊をした際に、その都度、亡父Tから強い叱嘖を受けると、少年の方から暴力で反抗することが多くなつたため、時には亡父Tも実力でこれに対抗するに至り、遂には、昭和四〇年三月下旬頃、少年に暴力的対抗を挑まれた亡父Tが、生来の短気な性格から、マサカリを持ち出して、少年の挑戦に応ずるという一幕もみられるに至り、亡父Tは、少年の素行・行動がおさまらず、かつ、学業成績がふるわないことに深く心を痛め、その将来に大きな危惧憂慮の念を抱くようになつていた。
一、ところで、少年は、昭和四〇年四月一日から、同月七日まで、無断で外出し、その間少年○○木○徳、同○藤○子、同簗○昇の各居宅や盛岡駅待合室などに外泊し、同少年らと不良交友を続けて、喫煙、夜遊、不純異性交遊などの行為を繰り返し、また、同月七日午前一一時三〇分頃、盛岡駅待合室において、友人の少年○藤○巳から貰い受けたものであると称して、ウイスキー小びん一本、外国製タバコ二箱を所持していた上、タバコを喫煙するなどの行為をして、保護者の正当な監督に服さず、かつ、自己の徳性を害する行為をする性癖を有し、その性格および環境に照して、将来罪を犯す虞がある。
二、また、少年は、昭和四〇年四月八日、前記一の虞犯事件で盛岡警察署に補導されたことにより、前記高等学校において、同月九日から同月一三日まで五日間の停学処分を受けるに至つたが、その頃から、亡父Tは、同校進学後間もなく、同処分に付された少年の素行に苦慮の色を深め、少年の立ち直りに対する措置の必要を感じていた。ところが、少年は、同月二三日頃、ふたたび飲酒して、盛岡警察署に補導され、また、同年五月一日から同月五日までの間、ふたたび無断で外出外泊したので、亡父Tは、さらに少年の将来を憂慮し、少年の同校担任教師○藤○○男や近隣在住の親戚M・K、M・Sなどと相談して、少年の更生に対する善後策を考慮し、少年に真剣に対処するに至つた。一方、少年自身も、内心自己の素行不良を反省し、自己の将来を考えて不安や焦そうを感じ、ひそかに苦悶懊悩し、自己の立ち直りのためには、不良交友関係を絶縁し、自己の精神を整理、かつ安定させる必要があり、そのために、現在の環境から脱出することが不可欠の問題であると考え、自己の更生の前途を思案しては迷つていたが、同月五日頃、亡父Tの相談によつて、少年の更生策を考慮していた前記M・Sから、更生のためには東京の高等学校に転校して、気分を一新するのも一策である旨示唆されるに及び、その頃から、転校問題を真剣に考えるようになり、時折亡父Tと転校問題について話し合つていたけれども、少年の家庭の経済的事情などもからみあつて、亡父Tと結論的な考えが合致するに至らず、内心、東京の高等学校への転校をほぼ決していたものの、転校へ確定的に踏み切れないでいた。
ところで、少年は、同月○○日、前記高等学校において、亡父Tから少年の指導の相談と依頼を受けていた担任教師○藤○○男から呼び出しを受け、同教師と少年の更生や将来の問題について話し合いをした際、なかなか同教師と意見が合致せず、遂には、同教師の意見と対立し、同教師の忠告・助言に耳をかさず、かたくなに反抗的態度で応待し、かえつて、同教師に対し「私は盛岡にいては立ち直ることはできない。私には、一〇〇人近い悪い友達がいる。私より弱い者・下の者と縁を切ることは何でもないが、私より強い者・上の者に対しては、仕返しがおそろしいので、縁を切るということは難しい。それで、警察の保護などは何の役にも立たない。私は、学校をやめます。そして、私は、東京の高等学校に転校します。私は転校する決心を変えません。私は、短気だから、どんなことをしでかすかわかりません。」などと少年の独断的な考えを一方的に申し立て、かねて決しかねていた転校問題についても明確な決意を吐露するに至り、その場は、同教師の求めにより、一応同日放課後、ふたたび同教師と話し合いをすることを約して別れたが、その後、同教師との約束を果さず、同教師と面会することなく下校して帰宅の途についた。その後少年は、その足で盛岡駅に赴き、同駅待合室付近で、帰りの汽車を待ち合せていた際、少年の動向を案じて、少年を探し同所に来た同教師に出会つたが、同教師とさしたる話し合いをすることもなく、翌日亡父Tと同伴の上、同教師と面会して話し合うことを約して、同教師と別れた。
少年は間もなく帰宅の途についたが、そのみちすがら、同日同教師と話し合つた際の、同教師の言動態度から、同教師が少年に訓戒や忠告・助言などをしたのは、亡父Tが同教師を訪れ、少年の素行や将来について、相談をもちかけ、指導を依頼したためであると考えて憤慨し、亡父Tにその事実を確かめようと決意し、同日午後六時三〇分頃、肩書住居に帰宅した。しかし、その際、亡父Tが不在であつたので、少年は、やむなくこれを諦め、友人の少年○郷○安方を訪れ、同日午後七時三〇分頃、ふたたび帰宅し、自宅茶の間で夕食を済ませた後、同所の炬燵に入つて仮眠していた。
ところで、少年は、同日午後八時三〇分頃、母K子にゆり起され、眼をさましたが、その際、亡父Tが自宅常居の間の炬燵に入つているのを認め、同所に赴き、同人に同人が前記高等学校を訪れ、前記担任教師と話し合つた事実の有無をただし、同人と少年の高等学校転校問題について、話し合いをはじめた。その際少年は、同日同担任教師と話し合つた結果、内心転校の決意を固めていたので同人に対し「転校の話はどうなつているのか。」といつて、同人の転校させる意思の有無をたずね、これに対し同人が「お前が行きたければ行つてもよい。ただ今すぐにといわれても家には、小屋や塀を建てたため、出費がかさんでいるので今のところ金はないから困る。今すぐにどうしても転校するというのなら、水田でも売らなければならないが、家の財産といつても山だけであるし、他の財産は、まだ死んだおじいさんの名義になつているので、これを処分するには、親類に承諾の判をもらつたり、相談したりしなければならない。もう少しだけ待つてくれないか。」と答えたところ、少年は、亡父Tが真実、少年の祖父の死後間がなく、相続問題が未解決であるので、財産処分に他の相続人の承諾が必要である事実を述べたのに、少年宅の管理財産はすべて当然に亡父Tの所有名義であると信じて疑わず、その事実を知らなかつた上、相続に関する法律関係を理解できなかつたため、その事実を信用できず、亡父Tが財産の処分について親戚に相談するなどというのは、同人が、真剣に少年の転校問題を考えていないためであつて、真意は少年を東京の高等学校に転校させたくないからであると考え、同人が自己の考えに賛意を示さないのに憤慨し、同人に対し「自分の財産を処分するのに何で親類に相談する必要があるのか。親類なんか何も関係がないではないか。そんなことをいうのは、俺を東京に行かせるのが嫌だからだろう。」などといつて、同人を難詰し、同人と口論をはじめたあげく同所にあつた座椅子を持上げ、同人の右肩を二、三回突いた。しかし、これは、ただちに、居合せた前記M・Kに制止されたが、少年は、それでも亡父Tが平然として、「叩くなら叩け。」といつて、これに動じないのに憤激し、さらに同人に対し「俺はどうしても東京に行く。俺は、今の学校にいたのでは、立ち直ることはできない。東京の学校に転校して、改心し、再出発する。お前は、学校に行つて、先生に何か俺のことを話して来ただろう。そのために、俺は今日先生に呼び出しを受けた。表に出て、俺と殴り合いをしよう。」など怒号し、同人の右上腕付近を掴んで二、三回引張り、同人を屋外に出るように促した。
しかしながら、少年は、亡父T(当四一年)が、少年の挑戦に対し、なお平然として、「そんなことをする必要はない。」と答え、これに応じて立ち上ろうとする気配を見せないばかりでなく、何ら動揺の気色を示さないのを認めてますます憤激し、いかなる手段をとつても、同人を自己の挑戦に応じさせ、同人を殴り合いの末屈服させようと決意し、そのためには、かねて、同所隣室の自己の勉強机の抽出の中に隠匿していた刃渡一六・九センチメートルのあいくち(証第八号)を持ち出し、これを同人に示して、同人をおどす以外に手段はなく、そうすれば同人がやむえず立ち上り、自己の挑戦に応じて来るにちがいないと考え、ただちに、隣室に赴き、前記あいくちを取り出し、さやを抜きはらつて右手に持つて、前記常居の間に戻り、同所の炬燵に入り、坐つていた同人の左側に近ずき、立つたまま、これを同人の前に示したところ、同人がなお動揺・狼狽の気配を見せず、かつ、立ち上ろうとする態度を見せないので、これに激昂し、その余り、自暴自棄となつて、やにわに、同日午後八時五〇分頃、同所において、前記あいくちをもつて、同人の左脇上腹部を一回突き刺し、よつて、間もなく、同日午後九時五分頃、同所において、同人をして、左側胸部左肺刺創による出血のため死亡するに至らしめた。
三、なお少年は、法定の除外事由がないのに、昭和四〇年四月下旬頃から、同年五月○○日までの間、別段の目的も理由もなく前記少年○○木○徳から譲り受けた同人所有の前記二のあいくち一振を、前記自宅において、自己の前記勉強机の中に隠匿して所持していた。
なお、少年は、(1)前記二の非行当時、心神耗弱の状態にあつたもので、かつ、(2)同犯行直後の昭和四〇年五月○○日午後九時頃、本籍地の紫波警察署徳田巡査派出所に出頭し、自首したものである。
(法令の適用)
一の事実 虞犯少年法第三条第一項第三号(イおよびニ)
二の事実 尊属傷害致死刑法第二〇五条第二項、第三九条第二項、第四二条第一項
三の事実 銃砲刀剣類等所持取締法違反同法第三一条
(処遇)
少年の家庭環境、生活史、学業、職業関係、性格、行動傾向、近隣、交友関係、心身の状況および少年の保護・矯正のために利用できる社会的資源等は当裁判所調査官大竹康夫、同菅原良夫が本件について作成した少年調査票記載のとおりであるから、その記載を引用する。
少年を主文掲記の処分に付する理由は次のとおりである。
一、少年は、本件二の尊属傷害致死犯行当時、心神耗弱の状態にあつた事実は、本件記録中、医師○泉○郎作成の鑑定書および証人○泉○郎の供述によつて認められる少年が潜在性癲癇素質と無関係ではないと認められる爆発性精神病質者の疑をもたれる事実、M・T子、M・K子、M・S、M・K、○郷○安、○藤○○男および少年の各供述調書ならびに少年の当審判廷における陳述によつて、認められる少年が同犯行前約一ないし八時間の間に睡眠薬を服用した疑をもたれる事実、少年が仮眠からさめた後約二~三〇分の間に同犯行に及んでいる事実、少年が、同犯行直前を含め、それ以前の相当期間、内心自己の非行を憂慮・反省し、自己の更生および将来の問題に苦悶・懊悩していたため精神状態が極度に緊張し、かつ、その影響により思考・行動に乱脈ぶりが認められる事実、少年が、同犯行直前、亡父Tと激論し、相当緊張・昂奮していた事実、前記各供述調書および供述ならびに司法警察官作成の検証調書および実況見分調書によつて認められる同犯行の動機・手段・方法・態様などが極めて異常であつて、一見不可解の点が多いと認められる事実などを綜合して認められ、少年が同犯行当時、是非善悪を弁別し、その弁識に従つて行動する能力を全く欠いていたわけではないが、その能力を著しく減退していたことについての合理的疑は十分であると認められる。
二、少年は、同犯行後、間もなく官に発覚する前に自首した事実は本件記録中、M・Sおよび少年の各供述調書ならびに少年の当審判廷における供述によれば、少年は、同犯行直後の昭和四〇年五月○○日午前九時頃、同犯行後、犯行現場にかけつけた前記M・Sに伴われて、本籍地の紫波警察署徳田巡査派出所に出頭し、司法警察員佐々木永夫に同犯行を申告した事実によつて、明らかである。
三、少年の当審判廷における供述によると、少年は本件非行後事件の重大さに驚くとともに、過去を深く反省し、改悛の情を示し、今後亡父Tの冥福を祈り、そのためにも遺された祖母、実母、弟妹に孝養をつくす旨誓つていることが認められる。
四、本件記録および調査審理の結果を綜合すると、少年の本件非行の動機・原因・背景などとして、次のような事実を認めることができる。
(1) 本件尊属傷害致死事件の直接的な動機は、結局少年と亡父Tとの少年の転校問題についての意見の不一致に対する少年の不満・憤満にあると認められるが、その意見の齟齬は、従来数育熱心で少年の素行・学業・成績などに大きな関心を抱き少年に強い態度で臨みながら、少年の心情を理解する努力に欠けていた亡父と、内心、自己の素行不良、成績不振を反省・自戒しながら、父親の干渉を迷惑がり、その注意や助言に耳を傾けようとしなかつた少年とが、親しく真剣に共通の問題について話し合う努力と機会をもたなかつたので、それぞれ主観と事実認識の相違から相互理解に欠けたまま、ただ相互に相手方の無理解を非難して対立し、しばしば激しい抗争を続けていたことによるものと認められる。
(2) 少年の同犯行の原因は、直接的には、性格的に意志薄弱、自己中心的、衝動的で、かつ、潜在性癲癇素質の疑があり、これと無関係ではないと認められる爆発性精神病質者であり、異常性格の疑のある少年が、同犯行前相当期間自己の素行不良に対する真剣な苦悩により、異常に緊張した精神状態にあつた上、同犯行当日の前記担任教師○藤○○男との口論にはじまり、同犯行直前の亡父Tとの激烈な口論抗争にいたるまで、漸次精神状態が緊張し、同犯行直前の極めて異常な昂奮によつて極度に緊張し、かつ、きわめて強烈な刺戟によつて、瞬間的発作的に憤満の感情を爆発するに至つたことにあると認められる。
(3) 少年の同犯行の原因は間接的には、知能的にさして問題がなく、家庭的にも、幼少時から、相当裕福で多分にわがままに育つた少年が、前記小学校卒業後、突然、遠隔の地にある前記中学校に進学し、やや精神未成熟のまま、新しい環境に入り、環境の変化と少年の前記性格とが相まつて、漸次、前記非行事実記載のように、誘惑に負け、不良交友に陥り同犯行の相当以前から虞犯性を有するに至り、かつ、本件一の虞犯事件を惹起するに及んで、少年の非行性は相当程度進んでいたと認められたにもかかわらず、その間、家庭においても、学校においても、少年の素行不良について、少年を強く叱嘖ないし訓戒するに過ぎず、ひとり、内心で自己の素行不良を戒しめ、反省し、自己の更生と将来の問題に悶々として苦悩している少年の心理心情を洞察・理解し、適切な助言・指導の方策を講ずることに欠け、少年の保護、善導についての努力が必ずしも充分であるとはいえなかつたこと、そのため少年が自ら招いた結果とはいえ、家庭・学校・社会などから疎外されている自己を意識せざるを得なくなり、その結果その意識によつて孤独感や、虚脱感などを抱くに至り、さらにこれにもとづき不信感、不安感、焦燥感、絶望感などを抱くに至りその圧迫により、結局自暴自棄的な精神状態に追いこまれていたことなどが全く関係がないとはいい切れないと認められる。
(なお、本件一の虞犯事件は、時間的には、本件二の尊属傷害致死事件および同三の銃砲刀剣類等所持取締法違反事件の各発生より前に発見・取調がなされているのであるが、当裁判所に送致されたのは、同事件発生後の昭和四〇年五月一三日である。)
五、しかしながら、少年の本件二の尊属傷害致死事件は、前記のような少年の異常な性格のほかに、これまたきわめて異常な没価値的な思考・行動生活態度にもとづくものであり、現象的には、少年の父親に対する単純な暴力的反抗が、その動機原因・手段・方法・態様などの異常性をともなつて、実父を死亡するに至らせるという極限の結果を招来したものであるとはいえ、本件事案の社会的影響すなわち全地球より重いといわれる人間の生命の尊貴さを毀損し又人間の生命、人生の意識および価値を没却し、かつ、海山よりも深く、重く、大きく、広いといわれる実親に対する敬慕・恩愛の観念を傷つけ、自己に生命・人生を賦与してくれた実親を死亡するに至らせたばかりでなく、自己の生誕・生活それ自体の意義さえもないがしろにするに至つた人倫上極悪の行為によつて、同年輩の青少年・子を持つ親、教育関係者その他一般社会に与えた驚愕、慨嘆、失望、不安動揺などさまざまの衝撃はあまりにも強く大きくかつ広く、少年の罪責は極めて重いものと認めなければならない。
六、以上本件調査および審判の結果を綜合すると、少年の保護については、まず、少年が癲癇性素質者としての爆発性精神病質者である疑をもたれる点を考慮し、少年を医療少年院に収容して、医療的措置による爆発性の緩和軽減をはかり、ついでその効果の定着次第、少年が異常な性格であり、きわめて歪められた価値観をもつている点を考慮し、適宜、少年を他の少年院に移送し、専門的指導による性格、思考行動傾向、生活態度などの矯正教育をはかり、その効果に期待することが相当であり、少年の更生・保護ないし健全な育成に、最も適正かつ効果的であると思料される。
よつて、少年法第二四条第一項第三号、少年審判規則第三七条第一項、少年院法第二条第五項を適用して、主文のとおり決定する。
(裁判官 玉川敏夫)